角島の大地の生い立ち
山口県北西部の海域に浮かぶ島=角島、これを「つのしま」と呼んでいる。古来より放牧がなされ、牛に関係が深く、牧崎と夢崎とを牛の角にたとえて、こう呼んだとされている。一方でこれを「かどしま」と読んだ人もいた。江戸時代、山形の酒田などからの北前船が、この島の沖合で舵を南に切って瀬戸内海に入る。まさに航行の向きを変える「角(かど)」であったからである。更なる一方に、奈良に「都濃嶋」と書かれた木簡が出た事実もある。今となっては何が本当かわからない。
人文地理はともかくとして、ここでは自然地理について述べる。ネタ本は、豊北町自然観察指導員会発行の『角島自然観察ガイドT』(平成16(2004)年第一版)である。
本州の最西端とされる下関・毘沙ノ鼻の真北27kmに位置し、豊北町附野の沖合に浮かぶ北東から南西にかけて4kmの2つの島からなる角島の大地の生い立ちを簡単に紹介する。
2つの島とは、北東の本土から見て右側の「元山(もとやま)」と南西の本土から見て左側の「尾山(おやま)」のことである。元山と尾山は別々の生い立ちを持つ。これが一つの重要な点である。
時は中生代白亜紀約7〜8千万年前のことである。まだ日本列島が大陸の縁にあった時代である。辺りは火山だらけで、火山岩や灰を吹き出していた。そうして積もった地層が、「阿武層群」である。この辺りの「基盤岩」となる。
約3千万年前大陸の東の端の大地が裂け始めた。「尾山」側では火山活動(田万川期)も活発で、裂け目には水が溜まり「元山」側は水の底となった。数百万年かけて西日本は時計回りに、東日本は反時計回りに観音開きして凡そ今の位置に落ち着いた。この間「尾山」側は田万川火山活動によって隆起し、「尾山」と「元山」の中間部の「地峡」部に断層を残した。輝石安山岩や角閃石流紋岩を「尾山」側に見ることができる。その後「峠山層」などの「日置層群」が堆積する。
(注・・・「伊上層」は「油谷湾層群」に分類されているが、「日置層群」に入れるべきである。)
約1千5百万年前、「尾山」は陸地であり、「元山」は海底であった。そこに油谷湾層群の「川尻層」が堆積してくる。
約1千〜8百万年前、「尾山」と「元山」の両島に「大津玄武岩(山陰火山岩)」が湧出する。「元山」はこの玄武岩で盛り上がり陸地となった。「尾山」は田万川火山岩の上に玄武岩が、「元山」は川尻層の上に玄武岩が覆っている。
以上で角島の原型が出来上がった。
その後30万年前であろうか、海水が今より40m位上昇した時期(ミンデル・リス間氷期)があった。
この時、砂に礫の混じった層が「尾山」の最上部を覆った。「尾山礫層」という。「尾山」には40mの高さを超える山が無いからである。
すでに、『角島自然観察ガイドT』において指摘されていたのだが、「尾山礫層」は「元山」にもある。にもかかわらず、学会では「尾山しかない」と吹聴されていた。多分今日でもそうである。
本稿は、このことを申し上げたくての草稿である。もう一度言おう。「尾山礫層は元山にもある。」
ただし、「元山」の礫層は標高20m程度の位置に分布する。「尾山」の40mに対して20mの落差がある。「なだれ落ちた」ものと解釈できるが、はっきりとはわからない。
「つのしま自然館」は今後とも、この落差を探究していきたい。 平成31年4月13日 記
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